永倉院長のお話し

HOME | 永倉院長のお話 | お薬のお話

お薬のお話


マーク
  インタールと私

 

古代エジプトの碑文には、薬はすべて毒物、その量のみが副作用を制する、という言葉があるそうです。近年、薬とその副作用が社会問題として取り上げられる場合も少なくありません。薬と副作用といっても、さまざまな状況があり、一口に薬害などと単純に言い切れない場合も多いと思われます。
 
医学の進歩は早く(?)、15年前には最新の治療といわれていたものか、現在では要注意であるなどと警告されるものも出る状況です。臨床医は、常に最新の状況に目を光らしていなければならないとはいえ、自分の専門分野はともかくとして、それ以外の分野については最新情報という意味では、心許ない状況といえるでしょう。
 
喘息の薬で、副作用が少ない、ほぼ安全といえるお薬はあるのでしょうか。抗アレルギー薬であるインタール吸入がそのひとつであると私は思います。抗炎症作用という意味では、吸入ステロイド薬に全く太刀打ちはできません。しかしながら本邦において40年弱使用されてきた長い歴史の中で、副作用報告は極めて少なく、特に小児においてはその報告は極めてまれといえます。私だけでなく、喘息治療を専門としている専門医の方々でも、小児のみならず、成人、老人においても、この薬を合わせて使用している場合は少なくありません。
このお薬が開発された背景は、現代の新薬の開発現場からすれば、全く想像もつかない状況であったことは、極めて興味深いことと思われます。
 
1950年代、英国のベンジャー社(その後、ファイソンズ社、現在はアステラス社)において薬理学者たちはエジプト産のセリ科植物Ammi visnagaの種子より抽出されたケリンの誘導体に、モルモットの喘息を抑制する作用があることを注目していました。ケンブリッジ大学校を卒業した医師で アルトニャン(Roger Altounyan)博士はシリアにおける病院勤務の後に、1956年にこの研究室に就任しました。アルトニャンという名前の語尾からわかるように、博士は中近東がオリジンであることがわかります。
もともと気管支喘息を持っていた博士は、蛋白アルブミンで感作したモルモットに卵白アルブミンのエアゾルを吸入させることによって得られたデータには目もくれず、自分自身で抗原誘発試験をして、そのさまざまなフェーズにこのケリンの誘導体を吸入し、喘息を抑制するかどうかを、全く自分の意志で検討し始めました。博士はモルモット喘息があったのです。なぜ博士は実験動物であるモルモットのデータには全く関心を持たなかったのでしょうか。
 
彼のことを紹介した本によると、彼は次のように述べています。<無知で、たぶん傲慢な臨床家で、薬理学者を信じなかった私は、モルモットと人の間には尻尾を振らないということ以外には、何の共通点を見いだすことができませんでした。そこで自分自身をモデルに使ってみようと考えました。> 喘息治療を行っている臨床家が、自分で抗原誘発試験を起こしながら、開発中の吸入の新薬の薬効を試すという現在では、想像もつかないような、破天荒としか言いようのない、無謀な試行錯誤が始まったのです。
動物アレルギーによる喘息発作の中で、げっ歯類であるモルモットはその症状が激烈であることが知られています。どこの研究所でも、モルモットやマウスによる喘息発作やアナフィラキシーを起こす研究者がいて、実験中に発作を起こし、苦しがっている同僚に動物の祟りだなど、とたちの悪い冗談を言う仲間がいるなどという話はときに耳にします。
 
博士は生涯数え切れないほどの抗原吸入テストをしたのです。その結果気管粘膜には何が起こっていたのでしょうか。当時はほとんど知られていなかった慢性炎症の結果起きるリモデリングが博士の肺の中で確実に進行していたのです。
1982年の秋、ロンドンのバリー ケイの教室にいた私は、博士に会いに行きました。ハリー ポッターの中に出てくる、北行きの列車の始発駅のモデルとなった駅から列車に乗りました。羊の群れのいる、所々に教会が点在する典型的なイングランド丘陵地帯の風景の中を、1時間旅行した後に、とある小さな駅に着きました。その駅で降りた人は私を含めて3人という田舎の小さい駅でした。博士が迎えに来てくれていました。
 
なんと驚いたことに、博士はパイプをふかしていたのです。噂には聞いていましたが、あのインタールの発見者が、しかも喘息で苦しんでいるその先生が、抗原吸入の合間にパイプを吸っているとは全く驚天動地でした!! 私がパイプを見て目を丸くしていると先生は目を細めて、これだけはやめられないんだよねとニヤニヤしていました。
 
研究室は2階建ての小さなものでした。その規模の小ささにも驚いたものです。中へ入り進行中の実験やデータを見せていただきました。博士はインタールの後、いろいろ新薬開発を試みているが、どうも今までのところ、ものになるものはない、と淡々と話していました。また私たちがロンドンでやっていた仕事のこともよくご存じで、いろいろな質問をされました。博士がおっしゃるには、自分が喘息の治療に携わっていたころには、喘息の原因は心理的なものだという学説が強く、細胞レベルの研究はほとんどなされていなかった。君たちの研究は、喘息発作の本体が気道炎症であるという可能性を示唆しており、非常に興味深いと言われたことは今でも覚えています。事実その通りとなり、1980年代から、日本製の気管支内視鏡の発達の助けもあり、気道の粘膜中の炎症細胞の役割が明らかとなり、現代の気管支喘息炎症論という大きな流れが始まる、ちょうどその源流のひとつに当時の私が加わっていた気がします。
見学の後は、型通りお茶ということになりました。たっぷりミルクの入った、色の濃いイングリッシュティーでした。博士はコーヒー(インスタント!)のカップを手にパイプをくゆらせていました。
 
さてインタール開発の話に戻りましょう。博士たちはその後5年間悪戦苦闘し、ある程度のデータを出したそうです。重役室からは次ぎのような疑問点が投げかけられたそうです。
 
1:アルトニャンを信じてよいものだろうか。これまでの経歴を見たところ、それほど有能ではなさそうだ。(研究歴の無い、ただの臨床医だ!)
 
2:たとえ彼が実験で自分の喘息発作を防ぐことができたとしても、それが他の人に通用するものなのか?
 
3:他の人に応用できたとしても、そのような薬の市場が大きいと思えない。(当時、喘息は大半が心理的要因によるものと考えられていたのです。アルトニャン博士の注!)
 
4: よく効く薬は副作用を持っているか、少なくとも、ある程度の薬理的作用を持っているものだ。しかしこの薬は薬理的活性のスペクトルがないので、よく効く薬にはなりそうもない。
 
最後に、他の動物実験での裏付けのない、一人の人間モルモットによる研究をどうして信じられようか。
四面楚歌の状態だったようですが、寛大な重役たちのおかげでプロジェクトは何とか生き延びたのです。とはいえ優先順位は極めて低く、全くかえり見られなかったこともあったそうです。彼は、実際のところ会社の関心を引かなかったことが、このプロジェクトを生き延びさせたのだと思うと述べています。
 
人体実験のために、1年間に新しい化合物を90ほどしかテスト出来なかったそうです。このことは、彼は週に2回抗原吸入誘発テストを繰り返し、していたようです。1963年に最初の壁を突破しました。化合物は濃度が0.5%でも、抗原吸入誘発テストの2時間前に吸入するとほぼ完壁に、喘息発作を抑制したようです。その後改良が重ねられ、ついに1965年1月19日、クロモグリク酸ナトリウム)インタールが誕生しました。
 
彼は開発途中で、この薬は内服してもほとんどが体内に吸収されないことに気づいていました。実はこの体内に吸収されにくいということが、後日、インタールの全身的副作用が少ないという背景のもととなるのです。
インタール発見後、長年の抗原吸入誘発テストがたたり、博士は持病の喘息が悪化してしまいます。詩人ワーズワースをはじめとする文人たちが愛したイングランドの湖水地方で1987年に亡くなりました。享年65歳でした。
その開発方法が前代未聞でありながら、見事に壁を突き破って誕生したインタールは吸入ステロイド全盛の現代にあっても、その安全性と独特の薬理学的特性ゆえに自分の居場所を確保していると感じるのは、私だけではないと思います。
 

2011/1/18